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開設記念スペシャル対談


内閣府 科学技術・イノベーション推進事務局審議官 合田哲雄
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一般社団法人ティーチャーズ・イニシアティブ 代表理事 宮地勘司

平成20年、29年の二度にわたり学習指導要領の改訂に携われた合田哲雄氏。現在は内閣府で科学技術・イノベーション推進事務局審議官として、社会や教育のデジタル化と人材育成に取り組んでおられますが、社会に開かれた学び、生徒が主体となる対話的・協働的な学びという学校教育の今の流れを生み出した中核となる人です。ティーチャーズ・イニシアティブ(以下TI)の理念や取り組みに共感していただいている合田さんに、TIの代表理事の宮地がお話をうかがいました。

指導主事の仕事を捉え直す

宮地:改めて昨年から、合田さんにはこの指導主事研修プログラムの入口から終わりまで伴走という形でかかわっていただきましたこと、感謝いたします。研修開始前には、今回指導主事を送り出していただく地域の教育長や同僚の方に向けて本プログラムの意義についてお話しいただいたり、今回受講した指導主事に向けては次期学習指導要領をどのような方向に持っていけばよいか、など刺激的な講座を持っていただきました。そして最後に指導主事の皆さんの実践発表をお聞きいただき、それを受けたシンポジウム「これからの教員研修を考える」では、東京大学の鈴木寛教授、さいたま市の細田教育長、法政大学の児美川教授とともに今の教育の本質をつく議論をいただきました。一通りサイクルを終えたところで感じたこと、考えたことなどお話いただけますか?

合田:まずはこういう研修をやってみようと思われたTIの皆さんに、心からの敬意を表したいと思います。伴走させていただいて、特に先日のシンポジウムでも感じましたのは、やはり指導主事というポジションに就かれている先生方が、その仕事、役割、ミッションに大変悩んでおられるということです。

我が国の学校教育が大きく転換しようとしているときに、それを相対化したり、あるいは総括したりしながら、同時に学校では日々授業が行われ、子どもたちが成長しているわけですから、つまり、遠くを見据えながら、同時に目の前の課題にも対応していかなければならない指導主事の先生方が大変悩まれていることを痛感しました。

その上で、シンポジウムでお話をうかがった三人の指導主事の先生方のご発表のように、「多様性」と「協働」の関係を模索しながらデモクラシーのあり方を探求したり、あるいは学校教育における指導主事の役割について思索を深めたり、学校教育においてアート(美術教育)とはどういうものなのかといった哲学的視座を持った実践を行ったりと、先生方が構造的に思考し、メタレベルの視点から議論して、思考を深めたことを形になさっておられることに心から圧倒されましたし、感じ入ったというのが正直な思いです。

指導主事の先生方にとってすごく大事なのは、今の指導主事としての目の前の仕事を超えて、一歩広い視野から自分の自治体だけではなくて、日本の教育とか世界の教育といったようなことを見渡した上で、日々の自分の仕事を捉え直すということなのだということを改めて感じた次第です。

宮地:ありがとうございます。今「メタ」っていうことや視野を広くみたいなお話が出てきましたけど、本当にリアルな現実に向き合って、そこを動かそうと全力を尽くすっていうことと同時に、メタ視点で全体を俯瞰する、相対化するっていうことが大事だと思うんです。もしかしたら日本の先生方って現場で向き合うのはものすごくできていると思うんですけど、メタ化、相対化が苦手な人が多いんじゃないかなって印象を持っていますがその辺はどうですか?

合田:その点については多分教育界だけの問題ではないと思います。私が最近熱心に教育関係者に御紹介している経産省元局長の西山圭太東大客員教授が書かれた「DXの思考法」にあるように、目の前の具体的なことにとらわれて、構造的な視座からは考えずに、日々今の目の前の状況をどう切り抜けるかということで仕事しているのは、教育界だけではなくて、大変失礼ながら企業さんもそうだと思いますし、メディアもそうなんじゃないかと感じています。もちろん我々官僚などはその典型だと思うのですけども、やはりそれが我が国の未来に対する希望を失わせている。社会に横溢するそのような雰囲気自体がこの国の可能性を失わせていると感じます。

この国の可能性を失わせているということは、子どもたちに対して我々大人が確固たる未来を手渡すことができないということにほかならないですから、そういった意味においては今、宮地代表がおっしゃったように、これがまさに「DXの思考法」ですけども、今目の前の具体的な現象を抽象化した上で、そこに現れてくる構造を捉えれば、他の業界とか他の分野のソリューションがどんどん使えるようになるし、様々な分野と繋がっていくと考えます。

前回のシンポジウムでの指導主事の皆さんの最終発表は、まさにそういう要素があったと思います。抽象化してみると、他の分野のソリューションを活かせることに気付く。先生方であれば、自らの担当教科の教育内容を抽象化したところに、教科と教科の繋がりが見えてくるし、それがまさに探究の糸口になるということを実感なさる。西山圭太先生と経産省の経済産業研究所(RIETI)の公開BBLセミナーで対話をしているなかで、DXの思考法が広がっているのは、企業や官庁よりもむしろ学校教育を担う先生方ではないかという予感がしますと西山先生もおっしゃっていました。そうでなければ今回のシンポジウムのように、例えば指導主事自身が探究的な学びを行う必要性をこれだけの先生方が感じて、主体的に取り組んだりはしないと思います。指導主事の先生方がそういう視点を持つことが、子どもたちに豊かな未来社会を譲り渡す、バトンタッチする上でも大事だと思います。

また、私が官僚として仕事をしている上でも感じることですが、日々目の前の仕事を着実にこなしていくためにも、メタレベルの視座や視点は大変大事だと思っています。目の前のことしか見てないと判断や対応を誤ることが少なくないのですが、そこで構造的な思考ができていると日々のさまざまなトラブルや突発的なことについても、対立軸で思考し相対化することにより乗り越えていくことができます。時間軸や空間軸を捉えたりして、構造的に考えることが、より質の高い意思決定を日々行う上でも大変大事だという気がします。

指導主事が抽象化して物事を見る重要性

合田:宮地代表がおっしゃった通りで、そこは明確に日本の社会の文化として特徴があると思います。先日東日本大震災11年目で、報道も多くなされましたけれども、私は東日本大震災の発災時、アメリカに1年間NSF(全米科学財団)のフェローとして派遣されておりました。

NSFに在職する科学者たちから何度も聞かれたのは、日本ではハイチやルイジアナと違って、何で暴動が起きないのかという問いでした。アメリカ人にとってみればとても不思議なのだと思います。相手が科学者だったので、日本はキリスト教と違って主体と客体を明確に切り分けることはしない。つまり自然は、人間がコントロールできる客体とは考えずに、日本では小学校の3年生から理科教育が始まるけれども、そこではまず「自然の中の人間」という説明をする。だから、人間は自然の中で生かされているので、仮にその災害が起こったときもこの災害を防げなかった責任者の責任を追及するという議論にはなりにくい。日本人はよく「仕方がない」って言うけれども、この仕方がないっていうのは別に諦めではなくて、そういう自然の中で「生かされてる」自分やその状況を受け止めるという意味なのですという説明をし、それが科学者たちには理解しやすかったようです。そういう感覚は我々にはなおあって、それは大事にしていく必要があると思います。

他方、歴史を振り返る形になりますが、私は世界の近現代の歴史の転換点は、高校の新必履修科目の「歴史総合」が示しているとおり、「近代化」と「大衆化」と「グローバル化」という三つだと思います。その「大衆化」という視座で歴史を考えると大正デモクラシーの頃から高度経済成長までが全部繋がっていると理解できる。この間まで「大正デモクラシーは素晴らしい」と言っていた国民が、中国で日本陸軍の兵士が戦死したり日本人が殺されたりすると一気に雰囲気が変わって戦争の道になだれ込んでいき、終戦後は、エコノミストの下村治さんが予言したとおり、我が国の大衆のエネルギーは高度経済成長に展開していったわけですけども、これらの歴史的事象は全部大衆化という大きな流れで繋がっている。

大衆化という構造自体に私は決して否定的ではありませんが、大衆化が多くの国民を冷静な判断から遠ざけ、メタレベルで状況を把握するという意識を稀薄にした。ある意味では、普通選挙法が施行されてデモクラティックになったにもかかわらず、なぜ戦争への道を歩んだかのかという問いは、問いが間違っているのかも知れず、普通選挙法が施行されてデモクラティックになったからこそ、外交の自制が効かなくなって戦争の道を歩んだという説明の方が説得的だと思います。そのことはここ10年のアメリカ政治や世界を覆うポピュリズムなどを見ても思うのですけども、そういう意味でこの大衆化とどう向き合うかは我々にとって大事だと思っています。このことは学校教育にとっても他人事ではありません。学校教育は大衆化とどう向き合うかっていう極めて重いお題を託されていて、誰もが平等で、誰も一人も取り残すことなく、みんなで成長していきましょうということは大変大事なのですけれども、そのことと、一人一人にはそのかけがえのない個性や特性があるということのバランスをいかに確保するかは常に難しい課題であり続けると思います。

だからこそ、前回シンポジウムでも問題提起がありましたけれど、「自由」いう価値と「民主」という価値が対立するといった観点をいかに取り戻して、大衆化を相対化するかということが重要になってくると思います。この大衆化という大きなうねりが、一番適合する産業構造が工業化社会です。工業化社会においては、大量のホワイトカラーと工場労働者が必要でしたが、そういう構造においては、とにかく目の前の具体的なことをきちんと正確にこなしていくことが重要だった。

それが今、皆とは違うことができるということに意味や価値がある社会に大きく転換しようとしているので、抽象化したり、メタレベルでものを考えたりするといった発想が大事になっている。ただ、その点について、西山先生との対談のなかでも議論しましたけれども、全員が全員メタレベルで思考できるわけではなく、具体的なことを磨き上げる職人気質な人、とにかく一つのことについて心を込めて極めて丁寧に磨き上げることが得意な人もいて、その人たちがちゃんと活躍の場があるということも大変大事だと思います。

その際、留意すべき問題は、日本社会においてはそういう作り込みとか具体物に寄り添う文化とか考え方が、同調圧力を背景にメタレベルで構造を把握し、抽象化して思考をする人の足を引っ張る傾向があります。お互い必要性があるし、異なる役割があるとの認識を広く共有し、足の引っ張り合いは避けなければいけないと思います。

私はこういう構造となっていることを学校教育で共有することが大事だと思うので、指導主事の先生方がメタ認知や抽象化する経験をなさることは大変重要だと、長くなってしまって恐縮ですけど、思った次第です。

一人一人に固有の役割があることを受け止めることで、同調圧力を乗り越えていく

宮地:ありがとうございます。とても面白いですね。すごく納得だなって思ったんですけど、ここからはもう完全に個人の興味にのっとってお聞きしますが(笑)、大衆はなぜそのようにメタ認知能力の高い人の足を引っ張ろうとするんでしょうか?何かやっぱり自分の尊厳のような問題なのでしょうか?

合田:それが極めて重要なポイントだと思います。シンポジウムでもお話したかもしれませんが、ファイル交換ソフトWinnyを制作した金子勇さんという東大助手は著作権法違反幇助罪で逮捕され、最高裁で無罪になりました。たとえてみれば包丁で殺人事件が起こったときに、包丁を作った職人が逮捕されるようなもので、どう考えてもおかしいと思いますよね。Winnyというソフト自体が悪いわけではありませんし、今で言うとブロックチェーンの先駆だったと申せましょう。巨大サーバーを通さないで個人が情報交換できるという画期的な仕組みで、それを日本人が考え出していた。だけどそれによって違法ダウンロードされた映像とか画像とかが飛び交ったということの責任を問われたわけです。逮捕したのは、京都府警の捜査2課。Winnyというファイル交換ソフトのせいで違法ダウンロードが飛び交ってけしからんじゃないかと。つまり自分の理解できないアイディアとか、知識に対して、拒絶反応を示し、そういったアイディアは閉じ込めればいいのだということに我が国はなりがちだと思います。

教育の世界でも、探究的な学びが十分広がらない背景には、多くの大人は学校において探究的な学びを経験してないわけで、そういう人たちからすると不安なのだと思います。「歴史の授業なのに、話し合いなんかしていて学級会みたいだが、そんな勉強でちゃんと学力つくのか?」といった不安や違和感ですね。それはWinnyを作成した金子さんを逮捕しろという世論と同じかも知れません。自分の理解できないことに対する不安や違和感、恐怖心で足を引っ張るというメンタリティは確かにあると思います。同時に、今まさに宮地さんにおっしゃっていただいたように、役割分担の問題もあると思います。誰も思いつかないことを考えて、破壊的イノベーションを起こすリーダーと、それを支えながら実現していくサポーター。そのサポーター自身にはとても重要な固有の役割があると思います。しかしながら我が国は籠に乗る人だけが偉くて、それ以外は価値がないという雰囲気があって、だからこそ「なんであいつが籠に乗っているんだよ」と引きずり下ろすという力学が働くという側面もあると思います。要するにこの二つからすると、自分の理解できないアイディアを許容するということと、それから一人一人には固有の役割があることを受け止めることが、同調圧力を乗り越えていく上で重要なことなのではないかと思います。もちろん私だって決して自分がそこから逃れているとは思っていなくて、私も同調圧力に組する傾向もあるわけですから、そういう自分自身を相対化していく上で、先日のシンポジウムで指導主事の先生方のプレゼンなどで学ばせていただいた意味は大きく、私自身の同調圧力の傾向の歯止めにもなっていると思います。

教員集団の多様性が不可欠

宮地:現実的に同調圧力の再生産みたいなものがあると思いますし、自分の中にもそれ見るなって思うんですよね。そうするとかなり幼少期からって思うと、やっぱり公教育、家庭教育の両方が影響を与えてますよね。ちょっと乱暴な言い方ですが、親と先生がやっぱりそのことをすごく促進してるようで、だから指導要領も改訂したり、いろんな取り組みされてると思うんですけど、学校教育が今あるしがらみを抜け出し、本当に人々がよりよく生きて幸福になれる社会、互いの違いを認めて自分らしく生きていく社会をつくるために何ができるんでしょうね。

合田:何ができるかの前に、学校教育をどう変容していくかの視点がまず必要ではないかと思います。その観点から、私は教員集団の多様性は不可欠だと思っています。

工業化社会のようにみんなと同じことができることのみが評価される社会では、学校にはみんな同じことができる先生を揃える必要があります。それこそが学校の強みだったわけですけども、今それがある意味では弱みになっています。学校に様々な学びや経歴、経験をした教師がいると、何か問題があったときにはその課題についてエッジのある教師がその課題に対応するという構造が、組織全体の力をかえって強くしていく。したがって、むしろ、先生ごとに言っていることが違う、矛盾しているという構造にしないといけないと思っています。みんな同じ思いで一致団結して行動しようなどと言われることがありますが、その方が異常で、先生同士で言っていることが違うと、「先生の間で言っていることが違うじゃないか!」と責めるのではなくて、子どもからすればどっちの先生の言うことが自分にとって今必要かを選ぶかという自分自身の選択の問題になります。そういうところから始まって、与えられた問いを一分でも一秒でも早く解くというトレーニングから、問いや仮説を立てるという学びに転換しなければならないし、今は学校という組織とカリキュラムが未分化な教育制度になっていますけれども、組織ではなくてプログラムに着目して、学校外のさまざまなアクターが子どもたちと関わっていくという仕掛けに変容していく必要があると思います。

学校制度を組織中心からプログラム中心へ

宮地:いやもうおっしゃる通り、みんな違ってみんないいは楽しそうだけど、実はそこへと続く道は苦しくて、ということがあって。でもその変化を起こすには時間もエネルギーもいりますよね。TIが設立記念シンポジウムを開催した際に、そこで登壇いただいた文科省の方がおっしゃってたのですが「教員組織っていうのは恐竜みたいなもんだから、尻尾を踏んで痛いって言うまでにとてつもなく時間かかる」と。今、合田さんおっしゃった主旨には多くの皆さん同意すると思うんですが、じゃ実際にその身体のでかい恐竜を北じゃなくて南に向かって走り出させるように方向転換するってことはとてつもなく大変だと思いますが、そこへのソリューションや戦略のようなものは何かありますか?

合田:私は二つあって、一つはやっぱりデジタル化です。情報の流通が全く変わってきています。例えば私が役所に入った30年前、あるいは、20年前、10年前、5年前と比べても、教育界の文化や雰囲気がずいぶん変わったと本当に思います。
こんなにいろいろな校長先生や教育長が、自分の顔を出して自分の学校経営を語るといったことはこれまでなかったことです。官僚も同じで、匿名性で仕事をする、個性で仕事するわけじゃないのだと言われてきましたが、今、随分雰囲気が変わりました。その背景にはデジタル化が間違いなくあると思います。先程のお話になぞらえて言えば、「恐竜の神経伝達には時間がかかる」というのはその通りだと思うのですけれども、デジタル化はその恐竜の体の中で神経が伝達される速度を飛躍的に速くしています。
もう一つは恐竜の方向性を変える大きな外的な要素が必要です。それは制度改正だと個人的には思っています。学校教育法という法律が今は組織を中心に構築されていますけれども、それをプログラム本位に変えていく。もしこれが実現すれば、150年ぶりの大改正になりますが。

宮地:組織からプログラム本位へって、もうちょっと具体的に教えていただけますか?

合田:例えば、学校教育法は、「小学校の修業年限は、6年とする」と規定しています。しかしこの規定はよく考えたら違和感があります。本当は、「初等教育プログラムの修業年限は、6年とする」ではないでしょうか。しかし、何で「小学校の修業年限は、6年とする」と規定しているかと言えば、小学校という「組織」と、小学校という組織が提供する「教育課程」は一体だという発想で組まれているからです。
だから、学校教育法は、それぞれの学校種について、校長を置きましょう、副校長を置きましょう、教諭を置きましょうという組織論を中心で規定されている。また、教育体系は、小学校には6歳になった子どもが4月に入学して、修了年限は6年である、中学校は小学校を卒業した人を受け入れて、修了年限は3年である、高等学校は中学校を卒業した人を受け入れて修了年限は3年あると規定されています。つまり、我が国の学校体系は、入学資格と修了年限で構成されている。これはサプライサイド(供給側)に立った構造で、学年単位でクラスが編成され、授業は一斉に行われていくし、同一年齢単位で学年ごとに毎年に進級・進学していくということが基本的な構造だということの表現と言えます。また、組織に着目する以上、初等教育プログラムを担う小学校に専門の免許を持った教諭が配置されている、つまり、何年学んだか、誰が教えるかが質保証の最大のポイントになってくるわけです。教えることができるのは、教育学部で学んで小学校教諭免許を持った人に限られ、小学校の設置者としては国と地方公共団体、学校法人のみに限定される。それに対して「初等教育プログラム」と規定した場合、そこではどういう学びが必要で、どういう力をはぐくむことが重要か、ということが軸に教育体系が構築されることになります。要するに誰が提供しているかではなくて、そこでどのような学びが行われているかが大事になってくるし、全ての子どもが足並み揃えて修業年限が6年間や3年間というような構造ではなくて、その学びをどういうプロセスで習得するかということについて、個人による多様性ができてくる。かつ、どういう学びが提供されているかが重要ですから、設置者は国、地方公共団体、学校法人のみだとか、免許を持ってなければ教壇に立てませんという話ではなくて、そのプログラムを成り立たせるために必要な専門家の力をどうアレンジするかがより重要になってくると思います。今の段階では、これは私の思い、ある意味では妄想ですが、ただデジタル化という大きな流れを考えたときには、この方向に変容していかざるを得ない。逆に言うと今の制度はデジタル化が進めば進むほど、様々な食い違いが出てくるのではないかと私は思っています。

ファシリテーターとしての教師・指導主事

宮地:よくわかりました、ありがとうございました。本当にその通りですね。そうすると小学校を6歳から12歳まで限定する必要もないのかもしれないし、必要な人は8年間学んでもいいし、もっと少なくてもいいのかもしれない。12歳を大きく超えてから必要な学びを小学校に取りに行く人がいてもいい。最終的にはその人が幸せになれるかどうか、そのために教育は何ができるのかという問いとなるわけですよね。

合田:その意味では指導主事の役割も大きく変わってくると思います。今はとにかく全体を漏れがないようにコントロールする、管理するという仕事が多いかも知れませんが、今後は様々なプログラムをいかに成り立たせるかと構想し、実行するコーディネーターであったり、ファシリテーターであったりといった仕事になってくると思います。そのときには絶対にメタレベルで状況を把握する力が必要なってくるということではないかと思います。

宮地:そうですね、教師がファシリテーターというのは、18年前の教育と探求社の創業の時から言ってきました。クエストの授業では生徒たちは長い時間をかけて企業や社会の課題などに取り組むわけですが、この授業では先生が正解を教えてくれないんだと気づき始めてから生徒は次第に本気になりはじめ、自ら学びにのめり込んでいきます。そんな生徒の姿をみた先生が後から自身の位置づけについて考えるようになるということがよく起こっています。そうなると、その先生の教える社会科や数学などの教科の授業も変化していきますね。先生自身が知識の番人ではなく、生徒と共に知を探求する伴走者であることを知るわけです。合田さんおっしゃるとおり、これからの教師は、ファシリテーターであり、コーディネーターであり、もしかしたらキュレーター的な力も求められるようになるのかもしれませんね。

合田:年末に政府はデジタル原則を閣議決定しました。
その中に「アジャイル・ガバナンス」という言葉が出てきていますが、あまり理解されてないし、メディアでも注目されていません。私の理解するところでは、ピラミッド構造のトップが一定の方向性を指示してみんなでその方向性を向いていくというような行政手法はもう限界だよねというのがアジャイル・ガバナンスの原点だと思います。
要するにアクターが皆同心円状に並んでいて、それが縦横無尽に繋がっていて、一定の方向性は共有しますが、それぞれがそれぞれで変容したり進化したりして、全体の最適解も時々刻々と変わっていくという社会像や行政の在り方を、アジャイル・ガバナンスと言っているのだと思います。
私は文科省に上意下達の権限がないということ自体は決して悪いことではなくて、そういうアジャイル・ガバナンスの方向に持っていくのだという意思があれば、逆に文科省として一定の方向性、みんながなるほどと思えるような方向性を提示すことができるし、そのためには文科省は自らの専門性を磨かなければならないということになると思います。また、アジャイル・ガバナンスの同心円状のアクター同士の様々な意見のやりとりのファシリテーター役に文科省がちゃんとなれるのかということの方が大事だと思っています。
話を戻すと、指導主事の役割は県内のあるいは域内の先生方のある種のファシリテーターという側面もあると思います。もちろん、学校や教師の創意工夫を活かすためにこそ標準化した方がいいことはあります。例えばデジタル基盤は標準化した方がよく、今自治体がバラバラに発注していて、全く標準化もされないし、互換性がないという事態は改善しなければならないので、デジタル庁が今そのような方向で検討を進めていて、これは大事なことだと思います。しかしこのようなインフラを除けば、私自身は今申し上げたようなアジャイル・ガバナンスの構造ができることが必要だと思っています。ただし、アジャイル・ガバナンスの実現に当たっては、センスの良さ、アンテナの高さ、それから機敏さ、明確なロジックを持ってディレクションをわかりやすく発信する力といった、はっきり申し上げて官僚や役所が一番苦手な力が求められるので、だとするとこれからの官僚や役所は様々なアクターとの連携が不可欠だと感じています。

今Teacher of Teacherとして働く意義とは

宮地:ありがとうございます。社会も教育も、今本当に大きな変化の真っ只中ですね。TIは今年こうして指導主事研修に取り組んだのですが、この流れの中で指導主事の皆さんの担う役割とか、ここからどのように主体的に動いていけばいいのかっていうのを改めて総括してお話いただけますか?

合田:はい、私も福岡県の教育委員会の高校教育課長をいたしておりましたので、その頃、指導主事の先生方と一緒に仕事をしていました。指導主事の先生方の仕事の大変さは実感しています。指導主事の仕事は、この間のシンポジウムでもありましたけれども、行政系の指導主事と教育センター系の指導主事のそれぞれで役割が違うと思います。
本庁勤務の行政系の指導主事の先生方は、とんでもないところに来ちゃったなと思っていらっしゃると思います。今まで学校に通っていたのに急に県庁や市役所に通勤することになって、周りは大人ばっかりだし、議員さんへの説明に四苦八苦するなどひどい目に遭っていると思われているかもしれません。しかし、今日もずっと議論しているメタレベルに立って状況を把握する力という意味においては、行政系の指導主事の先生方はそれをはぐくむ機会が多いと思います。目の前の議員さんに厳しく指摘されて苦しい思いをされるかもしれませんし、不快な思いをされるかもしれませんけれども、議員さんは議員さんでその先には県民・市民、その議員さんに投票した有権者がおられるわけですよね。学校の中にいると当たり前のことかもしれませんけれども、県民や市民との立場からは当たり前でないことは少なくないはずです。そのズレやその大きさを一番実感なさるのは、行政系の指導主事の先生方だと思います。だから大変だとは思いますけれども、自分は学校と社会のちょうど中間に立って、ある種バッファーとしての仕事をしているのだとメタレベルで状況を把握していただいて、その経験をどう学校で活かすかと思っていただければありがたいなと思います。
センター系の指導主事の先生方も、さまざまな研究者や教育者、行政などとお付き合いなさっていると思います。それもやはり同じで、様々な境界線上にいるっていうことは大変だと思いますし、つらいことも多いと思うのですけれども、なかなか学校にいては経験できないことだと思っていただければと思います。その上でその経験が、良かったと思うにしろ、嫌だったと思うにしろ、ただ単に経験で終わらせないためには、まさにその構造をどう変えていくのかとか、その構造を子どもたちのためにどのように活かしていったらいいのかという目線に立ったときに、指導主事の先生方の仕事が大変面白いものになってくるのかなと思います。そのときにぜひ、今回のTIの研修のように、予想もつかない、想像もつかないような出会い、議論、アイディア、発想などと接する機会も多く持っていただきたいと思います。
私なりの理解で申し上げますと、今の大きな学びの転換は明治5年の学制発布以来の大きな転換点だと思います。まさに150年前の文部省や私学の創始者たちが、どのような思いで近代学校制度を共創してきたのかというのと同じぐらいの局面ではないでしょうか。大変ではあるけれども、極めて面白い、めったにできない局面に立っている。それをリードしつつ、指導主事はTeacher of Teachersですから、先生方を支え、先生方の悩みを聞き、先生方をバックアップして、エンカレッジするという仕事をぜひ大いに楽しんでいただきたいとご期待申し上げております。

宮地:多面的で、深く、楽しく、刺激的なお話ありがとうございました。多くの指導主事の皆さん、現場の先生方にとっても、大きな力となることを確信しています。


プロフィール

合田哲雄
1970年生、倉敷育ち。92年文部省入省。福岡県教育庁高校教育課長、2004年の国立大学法人化の担当、08年の学習指導要領改訂の担当、NSF(全米科学財団)フェロー、高等教育局企画官、研究振興局学術研究助成課長、初等中等教育局教育課程課長、内閣官房内閣参事官、初中局財務課長、科学技術・学術総括官等を経て21年7月から現職。兵庫教育大学客員教授、広島大学客員研究員。目黒区立の小中学校のPTA会長を6年間経験。論考に「アイディアとしての『Society5.0』と教育政策」(『教育制度学研究』第27号)。

書籍
『学習指導要領の読み方・活かし方』(教育開発研究所、19年)
『学校の未来はここから始まる』(教育開発研究所、21年)
『メディアリテラシー: 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』(時事通信出版局、21年)

宮地勘司
1963年長崎県生まれ。立教大学社会学部卒業後、日本経済新聞社に入社。自らの起案により日経社内に教育開発室をつくり、現実社会と教室をつなぐ教育事業の開発に取り組む。2004年日経を退社し、株式会社教育と探求社を設立。18年間にわたりアクティブ・ラーニング型の学習プログラム「クエストエデュケーション」を全国の中学・高校に提供してきた。2015年、教師を支援するために一般社団法人ティーチャーズ・イニシアティブを設立。変化する時代の中で、子どもたち中心の主体的、生成的な学びの実践をサポートしている。
書籍
『探求のススメ』(教育開発研究所、21年)
『この先を生む人』(共著・さくら社、21年)
『これからの「教育」の話をしよう』(共著・インプレスR&D、13年)