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恐れていたのは自分がつくった虚像だった


茨城県教育研究センター
指導主事 佐藤 悠人

「正解」はない。迷い続けることに自信をもてた。

 私が現場にいたのは11年間です。1校目が5年で、2校目が6年。2校目が終わるタイミングで、今の職場である教育研修センターに移りました。35歳のときでした。ふつう、指導主事になるのは40代中頃なので、「何を冗談言っているんですか」という感じでした。

 そもそも自分は教員になるつもりはありませんでした。警察官になりたいと思っていました。大学3年生ぐらいから気持ちが変わり、大学4年で教育実習に行き、決定的になりました。小学校のころ、大好きだった先生が、とにかく私たちといっぱい遊んでくれました。教育実習を経験して、私も、いっぱい生徒たちと遊び、いっぱい思い出をつくりたいと思うようになったのです。それで大学院に進みました。

 社会科を担当しています。社会を良くしたいと本気で思うところがあります。自分の力は微々たるものでも、自分と同じような思いをクラスの1人でも持ってくれたら、学年が5クラスなら、10年たてば50人が持ってくれる。こんな素晴らしい仕事はないと思うようになったのです。

 しかし、高校の教員になって、自分のように高校を卒業して大学に行き、さらに大学院まで親からカネを出してもらって進むことが、どんなに恵まれていたことかと感じました。1校目も2校目も、学校に行くことがやっと、家庭の事情や、お金の事情、中には両親ともいない生徒もいて、そんな生徒たちを目の前にして、自分はなんて偉そうなことばっかり言っていたのだろう、浅はかだったと気づきました。

 でも、だからこそ、目の前の生徒たちに謙虚に向き合い、勉強をしたこともないような、勉強をしたくとも、とてもそんな環境にないような生徒たちに、やっぱり勉強って面白い、歴史ってワクワクすると思ってほしいと思ってこれまでやってきました。ある意味、受験と全くかけ離れた環境にあったことが、逆に幸いでした。

なぜ自分が指導主事に。劣等感いっぱいのときにTⅠを知る

 そうした教員生活を送っていたら、指導主事に就くように言われたわけです。私の同期がもう1人指導主事になりましたが、めちゃめちゃ優秀で、それに対して、正直、なんで自分が命じられたのか分かりませんでした。引き継ぎのために現在の職場を初めて訪れたときは恐怖でいっぱいで、そこで出たコーヒーも、こんなに味を感じないのは初めてでした。何を話したか、何も覚えていません。

 異動後も、劣等感やコンプレックスの塊でした。自分には指導主事として語るべきノウハウも経験もないわけです。周りには、私より一回りも年上で、素晴らしい経験をお持ちの先輩ばかり。本当にもう罰ゲームか、前世で悪いことしたからか、とさえ思っていました。

 ただ、おかげで、改めて自分に何ができるのか、自分という存在を振り返ることが出来たように思います。4月、5月、6月の間はとにかく何もできない自分が、一体何ができるのかひたすら考え続けました。私が実施する研修の受講者には、年上の方もいっぱいおられる。その中で、自分が前に立って偉そうなことを話すのは、すごく抵抗がありました。先輩方からの引き継ぎ資料をそのままコピーして講義するのでは、先輩方の真似をするだけで、しょせん劣化版に過ぎません。どんどんどんどん色あせていきます。それなら、先輩方がやった方がいいに決まっています。

 自分にしかできないことって何だろう。そう思い、悩んでいたときにTI(ティーチャーズ・イニシアティブ)の指導主事のプログラムと出合いました。

 きっかけは上司からの紹介です。ある日突然、「実はこういう研修があるのだが、ちょっとやってみないか」と言われました。二つ返事で「ぜひお願いします」と答えました。怖い面もありましたが、「絶対楽しいだろう」と直感的に思いました。プログラムの内容が示されていましたが、正直、そのときはよく分かりませんでした。でも、見たことのない研修だからこそ、これは面白いに違いないと感じたのです。

 研修は、資質・能力ベースで作られていることが多いと思います。こういう人が対象なので、こういう力をつけてください、そんなプログラムは、ごまんとあります。しかし、TⅠは違いました。こういう目的で、こういう技術をマスターする、というのではない。先が全く読めません。だから刺激的でした。

 初めのキックオフ合宿はオンラインになりました。参加するときは、もちろん緊張しましたが、ワクワクの方が大きかったです。よく分からないところに飛び込んでいくのが大好きなんです。

 ちょうど30歳のとき、このときも先輩から誘われて、東アフリカのタンザニアへ研修に行ったことがあります。JICA筑波の募集で、帰国後は、その経験を日本の生徒たちに還元するプログラムでした。タンザニアで実際に私たちが授業をするのです。もちろん言葉が通じないので大変だったのですが、カタコトの英語とボディーランゲージで、日本文化を伝えるものでした。8泊11日の経験でしたが、人生が変わりました。これで怖いものがなくなりました。TⅠの半年間のプログラムは、それに匹敵するものでした。自分の指導主事人生は、これで変わると思いました。

 私は大学のとき、哲学をちょっとかじりました。そのお師匠さんから、今までの社会の仕組みとか、正しいとされてきたこととかは、これからの時代では必ずしも正しくなくなる、ということを学んできました。では、そんな時代に研修センターの指導主事として、自分には何ができるか、何をしたらいいのか、悶々としていました。そんなときにTⅠの研修に参加して、その悶々とした思いは決して間違っていなかったと感じることが出来ました。自分が良いと思うことをやっていいのだ、というお墨付きを得た気がしました。それがTⅠの合宿に参加して一番、強烈に感じたことでした。

 社会構成主義に基づいて、ということがテーマの研修だったと思います。これまでの教育は正解があって、正しい知識とか技能とかはあらかじめ決まっていて、それを身に付けさせればいい、という考え方でやってきたわけです。しかし最近は、もうそんなのは終わりだと、かまびすしく言われています。でも実際はそうなっていない。教育現場もそうですし、研修もそうです。だから、そのギャップにすごく苦しんできたのですが、TⅠの研修を受けてみたら、すごく自分の思いを応援してもらっているような気持ちになれました。さらに、では、どういう研修をするか、形にしてみることまで半年間のプログラムでやれました。それが一番ありがたかったと思います。

恐れていたのは自分がつくった虚像だった

 先生方にやっていただきたいのは「問い」をもとにした研修です。受講していただき、それを現場に持ちかえっていただき、現場でやっていってもらいたいと考えています。

 自分の中でももっと迷い続けたい。正解がないので受講者である先生方と共に、迷いながら、悩みながら、一緒によりよいものをつくっていく講座が理想だと考えています。

 自分のセンターで実践してみたら、賛同を得られました。センターの皆さんに「これはいいね」「やっぱりこういうスタイルは大切だね」と言っていただけたのです。こういうと、今までの話をひっくり返すようですが、実は、今まで自分が恐れていたものは虚像だったようです。指導主事って怖い、とか、先輩って怖いとか、自分みたいな立場の人間が、今まで続いてきたことをひっくり返していいのか、などと思ってきたのは、それこそ自分自身がつくり上げた固定観念でした。ついこの間も、ある先輩と「ちょっとこの『問い』をもとにして研修を作ってみよう」などと、夜中までずっと、ああでもない、こうでもないと言い合うことができました。

 実際、職場は今、大きく変わり始めています。オンラインが与えたインパクトはとても大きく、今まで集合研修でやっていたことが、もう知識を伝達するだけなら集まる必要ないね、となりました。逆に言えば、研修センターに来所する以上は、オンラインでは得られない何かを持ち帰らないといけない、持ち帰ってもらわないといけない。言葉は悪いですが、研修する側は殿様商売ができなくなったわけです。お客さんとして遠いところから来てもらった以上、本当に濃い時間を過ごしていただき、現場に戻ったら、種をまいてもらうことまで本気で考えなければいけなくなっています。

 指導主事の仕事は一期一会だと思います。

 生徒には、明日も明後日も明々後日も会いますし、その意味では、やり直しがききます。しかし、研修はそうはいきません。初任者研修みたいに十何日もあればまた別ですが、基本的には1日もしくは半日、さらに言えば、私自身が担当するのなんて、せいぜい1時間ぐらい。取りまとめ役だけならば、研修の一番最初と最後に挨拶するだけということもあります。

 ただ、時間をかければ良いものではありません。時間が短いのなら、そこにかける熱量をすごく増やすことだと思います。ある研修で1時間だけ、先生方の研究協議に参加したところ、帰り際にわざわざ二人の先生が寄ってきて「どうしてそんなに言葉に端的に力を込められるんですか」と声をかけて下さいました。

 私は今、四つの研修を担当しています。すべて高校対象で、一つが初任者研修。二つ目は中堅前期という6年目の実習助手の先生を対象としたもの。それに学年主任の新任研修と、茨城ではベテラン教員研修と茨城で呼んでいる、45歳になった方に対する研修です。

 学年主任をやったこともないのに学年主任研修をやるのか、という思いはありました。ちょうどTⅠの研修を受ける頃だったと思います。自分よりもはるかに大ベテランの先輩とかが受講者で、初めは私を指差して茶化す先輩もいましたが、終わったら、「いや、今日は来て良かった」と言っていただきました。やはり「思いを乗せる」ということは大事だと実感しました。

それは生徒のためになっているか

 教師としての自分を振り返ると、初任校でお世話になった先生も、また偉大な方でした。関東大会に行くようなバドミントンの強豪校で、私はその部に配属になりました。バドミントンのバの字も知らなかったのですが、4月1日に顧問の先生に挨拶に行きました。定年間際の女性の方で、さっそく体育館に来るように言われ、くっついていきました。とにかく見よう見まねでやりなさいと言われ、初めての練習試合の日には、あれこれメモを取っていました。すると「もうそんなことやめなさい」「生徒のことをちゃんと見なさい」と言われました。

 教員にとって一番大切なことを一番最初に教えて下さいました。とにかく生徒のことをよく見なさいと、そして気づきなさいと。それが先生にとって一番大切なことだと。それをストレートに示していただけたのが、今も自分のよすがになっています。

 迷ったときは、これは生徒のためになっているのかを考える。研修センターにきても、先生の向こう側にいる生徒のためになっているかどうかを、いつも自分の中の判断基準にしています。

 TⅠの研修でも、皆さんそれぞれ素晴らしい方でしたが、一番印象に残ったのは、広島の久永さんです。「子どものために授業するときに、あなたを駆り立てるものは何ですか」という問いに、「教室のにおい」という言葉を、ぽっと出されました。もうガーンとやられました。自分が先生をしている理由は何ですか、というような質問のとき、私は、生徒にいろいろ考えさせるとか、その社会をより良くしてもらいたいとか、通り一遍のことを話したのですが、久永さんの言葉は、自分の教員魂の根本を揺るがすようなものでした。どんなにつらくても、もう教室に行きたくないと思っても、やっぱり教室に入ると、いつの間にか生徒のためにテンションが上がっている自分がいる。そうなんだ、そうなんだという思いを久しぶりに思い出しました。

 ところで、新しく指導教諭という立場の方が新設されます。この指導教諭の方々にどんなことを身につけてもらうかで相当困っています。ところが、私の研修を受けてくださった先輩が、これだよって言ってくださいました。指導教諭といっても、結局、何を指導するのか、高校だと教科はみんなバラバラ、専門性もみんな違う中で、一体この指導教諭の人たちに、どんな役割を担ってもらうのか。そんな迷いに対して、まさにこのTⅠの研修が、「問い」をもとにして、誰もが共通して、同じ土俵で考えることこそが求められているものだ、と気づかせてくれたのです。正解がない「問い」をもとにして、みんなで考えて、何か納得解を作っていく。漠然としているけれど、そういう研修を、何らかの形で実現していきたいと思っています。

 指導主事はこうあるべきだ、神様みたいな存在でなければいけない、というところがあると思います。先生も多分そうです。先生はこうあらねばならないという理想像。それに近づきたいと思う先生もいる半面、そうでない先生は苦しみます。なんで俺はできないのだろう、なぜ私はこんなに頑張っても近づけないんだろう、と。それはものすごく罪なことです。先生方が罪なのではなくて、そんな虚像を作り上げている社会が多分、罪なんです。

 自分が指導主事になって改めて思いました。自分の中で、勝手にとんでもない人たちのイメージをつくっていたと。冷静になって思えば、自分が務めているわけですから、多分、誰でも出来るのです。つまり、正解があって正解に近づくっていうことではなくて、正解を探し続けたり、あるいは私はいつも、幸せに生きたいとか、楽しく生きたい、楽しく生きるためにはこういうことをやってみようとか、こういう努力をした方がもっと楽しめるだろうと思うタイプの人間なので、先生方にもそれを感じてほしいと思うわけです。

 今後、このTⅠの研修を受講される先生方には、ぜひ「楽しい」というマインドセットで受講していただきたい。ガツガツと何かを終えてやろうとか、何かすごいものに自分に近づいてやろうとか、そういうギラギラした感じよりは、どうすれば楽しくなるかとか、どうせなら、もうちょっと幸せになるかとか、そういうマインドの方がしっくりくる気がします。

  今の子どもたちを見ると、十数年間の生育環境がものすごく影響していて、お利口さんになって勉強もできる子がいれば、そうじゃない子たちもいる。家に1冊の本もない子とか、家に親がいない子とかが、言葉を自由自在に扱うのは、ものすごいハードルの高いことなのです。我々が当たり前だと思ってやっているのは、実はとてもすごいことなのです。教員は「何でわからないんだ」とか、「何で書けないんだ」とか、「なんで読めないんだ」と当たり前に言っちゃうんです。だけど、それは実は傲慢なことなんです。生徒はそう簡単にできないんです。だから、ますます勉強も嫌いになるし、言葉も、自分の思いを伝えたくなくなる。

 言葉という、そのスペシャルな能力に頼らないような、何かユニバーサルなデザインができないかと考えています。言葉以外のアウトプットの方法。音楽とか、美術とか、言葉に頼らないアウトプットで、その子たちに真摯に向き合いたいし、思いをくみ取りたい。それが「誰一人取り残さない」ということだろうと思っています。それはずっと多分これから一生悩み続けていくことだと思っています。

 進化とか進歩とか、進まなくちゃいけないと思うと、あるべき姿が出来ちゃう。すると、そこからついつい引き算してしまう。こういう資質・能力を身につけさせるために、こんな授業をしようとする引き算的な考え方は嫌いなんです。あるべき姿を決めない。足し算で行きたいと思っています。だから迷い続けたい。それでいいということが、このTⅠの研修で確かめられたと思っています。